学生運動を経て弁護士になった広島出身の父と、沖縄出身の母のもとに生まれ、沖縄本島で育った三宅千晶さん。
「戦争に対する恐怖は、幼い頃に父方の祖母から聞いた被爆体験にさかのぼります。沖縄から台湾に疎開していた母方の曽祖母は、どこで亡くなったのか今もわかっていません。戦争はただ恐ろしく、何の救いもないものだと感じてきました。
沖縄で生まれ育った私が戦争の原因を考えるとき、やはり行き着くのは米軍基地の存在です。弁護士になろうと決めたときから、基地問題に取り組もうと考えていました」
三宅さんは現在、基地問題をはじめとする公共訴訟に取り組みつつ、ネットメディア「デモクラシータイムス」で『沖縄うりずん通信』のMCをつとめるなど、幅広く活動している。弁護士を志した経緯や裁判を通じた変化、今後のビジョンを聞いた。(取材・文/塚田恭子)
●弁護士報酬の代わりに野菜を受け取った父
実家には、戦争関連の本や映画が多くあった。アンジェイ・ワイダ監督の『地下水道』(ワルシャワ蜂起を描いた作品)は特に印象に残っているという。
5歳のときには父に連れられ、「人間の鎖」となって基地を囲んだ。「小さい頃から戦争について深く学ぶことができる環境にいたと思います」と三宅さんは話す。
「中学・高校時代は、戦争という人災で人が死なない世界をつくるために、将来何になるべきかを考えていました。
大富豪になって武器商人に対抗できる人になるか、政治的影響力のある人になる、あるいは、主義や主張に関係なく、『この人の話を聞いてみたい』と思ってもらえる人、たとえばミュージシャンや映画監督など、人々を楽しませることのできる人になれたら、多くの人に平和を訴えることもできるんじゃないかと思っていました。
ミュージカルや音楽、何より人を笑わせることが大好きだったので、高校の頃にはお笑い芸人やミュージカル俳優、映画監督になりたいと考えたこともありました」
第一志望だった早稲田大学文化構想部には落ちたが、一般入試で法学部に合格。父と同じ道を歩むことを勧められたと感じ、弁護士を志すようになった。
「土日も関係なく働く父を見て、弁護士の仕事は大変だと思っていました。お金の話が苦手で、報酬の代わりに野菜をもらってきたこともあり、母は困っていたと思います。父は市民運動の前線で拡声器を持って訴えていて、私は弁護士とは、法廷で争う人というより市民と共に現場で声をあげる存在だと思っていました」
●医師になるか、弁護士になるか迷ったことも
3年次には、社会問題に関心を持つ学生が集まる憲法学者のゼミに所属したが、沖縄でのゼミ合宿を機に、進路の見直しも考えたことがあったという。
「沖縄に対する自分の認識と、周囲の学生の認識に大きな差があることを感じ、人を助けるなら医師のほうがよいのではと思ったんです。退学を決意していましたが、学務主任に『休学にしておきなさい』と強く勧められ、1年間休学して医学部を目指し予備校に通いました」
だが、数学が苦手だったため、医学部進学を断念し、大学に復学。ロースクールを経て司法試験に挑戦したが、試験本番では、いくつものトラブルが重なった。
「民法の試験後、他の受験生が話していた内容が自分の解答と違ったんです。試験は上手くいったと思っていたので、最初は気に留めませんでしたが、会社法の試験中、急に自分は間違っていたのではと思って動揺し、泣いてしまいました」
さらにその晩、突然、親知らずの痛みに加え、熱も出てしまった。
「ホテルで薬をもらい、翌日も、友人からもらった解熱剤を飲んで試験を受けましたが、最終日の刑法の短答試験では、疲労で途中から寝落ちしてしまい、目覚めたときには時間がほとんど残っていませんでした。合格できたのは、運が良かったとしか言いようがありません」
●情報公開訴訟で実感した「司法の力」
司法試験合格後は、広島で司法修習を受け、刑事事件にも関心を持つようになった。
「基地問題に取り組みたい気持ちはずっとありましたが、神山啓史先生の刑事弁護の講義が非常におもしろく、惹かれました。人生をかけて刑事弁護に取り組む姿勢に父の姿が重なりました。さらに事務所には趙誠峰先生がいて、刑事弁護の魅力に引き込まれていきました」
2017年の弁護士登録後は、警視庁の情報公開訴訟や厚木基地騒音訴訟、自動車運転過失致死事件などを担当した。
「2025年6月に最高裁で勝訴した警視庁の情報公開訴訟は、行政がそんなずさんな決定をするのかと驚きました。判決後すぐに、同じように情報公開訴訟をしている知り合いの弁護士から『東京地裁行政部の運用が一変した』と聞いて、司法の力の大きさを実感しました」
一方、性風俗業者を持続化給付金の対象から除外した国の対応を違憲と訴えた裁判では、最高裁で敗訴した。
「5人の裁判官のうち4人が、事実上デリヘル批判を展開し、合憲とするために極めて狭い解釈をしていて落胆しました。ただ、その中で唯一、私たちの主張をくんで違憲と書いてくれたのが、宮川美津子裁判長です。
時代や人が変われば、今日の少数意見が多数意見になることもある。弁護士の仕事は社会に石を投げ続けることなので、希望を失わず声を上げ続けるべきだと考えています」
●『沖縄うりずん通信』で伝えたかったこと
2022年6月から3年間、三宅さんはネットメディア「デモクラシータイムス」で『沖縄うりずん通信』のMCを担当した。
「警視庁の情報公開訴訟の弁護団長、升味佐江子先生のお声がけで関わることになりました。沖縄は本土メディアであまり取り上げられないので、『沖縄うりずん通信』では、当事者の声と表情を通じて沖縄を伝えることを心がけました。
基地問題一つとっても、沖縄と内地では背景知識が違います。また、沖縄戦や今に至る歴史認識も、多くの場合、本土では学ぶことはありません。番組では、どうすれば沖縄で今起きていることや、沖縄の人たちの気持ちをどう伝えるか。語り方を含めて学びの場になりました」
●父の仕事を継ぐ──沖縄への思いと新たな一歩
公共訴訟、刑事事件、家事事件、民事事件──。どの分野の仕事にも心血を注いできた。今後もそれは変わらないが、自身のライフプランを見据え、三宅さんは2025年6月からフランスと日本を往復する生活を始めた。
「今後2年ほどはフランスと日本を行き来する予定です。その後は沖縄に戻って父の仕事を引き継ぎ、現在所属しているKollectアーツ法律事務所と連携し、事務所のスタッフにも沖縄に来てもらったうえで、私は東京に戻るつもりです。
最終的な決め手は事務所のみなさんが後押しをしてくれたことです。壮行会では感動的なビデオもつくってくれて、本当に嬉しかったです。今、世界が大きく動いている中で、まったく異なる地理や歴史、文化を持つ国で生活できることは、素晴らしいことだと思っています。少しでも、事務所のみんなや今後の弁護士としての仕事に役に立つ経験ができるように、踏み出したところです」
【プロフィール】みやけ・ちあき/1989年沖縄生まれ。早稲田大学法学部卒業。2017年弁護士登録。Kollectアーツ法律事務所所属。特定非営利活動法人情報公開クリアリングハウス監事、新外交イニシアティブ研究員。共著に『戦争を回避する「新しい外交」を切り拓く』『取い戻さな!我した琉球祖先ぬ骨神』など。