「こんにちは。私の名前はクラウディオ・ペニャです。チリのサンティアゴで生まれました。50年前からコックです。35歳で日本に来ました。15年、日本でコックをしました。
2011年の地震のあと、みんな混乱しました。私のレストランのオーナーになるはずの人が、日本から逃げました。保証人がいなくなったので、私のビザはなくなりました。それからずっと私は悪い夢の中にいるみたい。
入管に捕まる、仕事もできない、今までずっと大変です。私はビザがなくなってもチリに帰れません。命が危険だからです。サンティアゴにいるとき、2回も怖い人たちに襲われました。3回目は、私の命がない。そう思います。
私の家族も『クラウディオ、戻ってきたらダメ』と言いました。今チリに家族はいません。親は死にました。兄弟は外国に逃げました。私は今65歳です。チリに帰れません。日本に30年暮らしました。
つらいこともたくさんありました。でもたくさんの友だちがいます。私を助けてくれます。私が生活できる場所はここだけです。私はチリ料理のコックです。私の料理を日本のたくさんの人に食べてほしい。それを認めてください。よろしくお願いします」
これは今年9月、クラウディオ・ペニャさんが東京地裁の法廷で語った言葉だ。
自分で大きな紙にローマ字で書き、家で何度も練習を重ねた。当日も裁判所に早く来て練習を繰り返していた。そして本番、初めて「原告」として法廷に立ち、裁判官や傍聴席の友人たちの前で最後まで言い切ることができた。
●「在留特別許可を出さないのは違法」
ペニャさんは今年6月、国を相手取って訴訟を起こした。入管が「在留特別許可」を与えないのは違法だと訴えるものだ。ペニャさんは母国チリで迫害を受け、帰国すれば命の危険があると主張しているが、入管はそれを認めていない。
●チリで迫害されて逃亡した
1973年9月、チリではピノチェトによる軍事クーデターが起きた。
ペニャさんの父親は、軍部の命令で「左派狩り」に協力させられた。1990年の民主化後、父親が当時の虐殺について証言すると、今度は極右から「裏切者」、極左からは「加害者の仲間」とされた。一家は双方から迫害の標的になり、離散した。
ひっそりと暮らしていたペニャさんだが、その後、料理人として知られるようになると居場所を突き止められてしまう。1992年、サンティアゴで拉致されて、激しい暴行を受けて重傷を負ったという。
命からがらチリを脱出し、しばらくヨーロッパやアメリカで暮らしたのち、日本人と出会って意気投合。「日本にある自分の店を手伝ってほしい」と言われて、日本へ渡ることを決意した。
裁判に向けて練習するペニャさん
●東日本大震災で途絶えた「保証人」
1996年1月、技能ビザで来日。そのレストランで働き、安定した生活を送っていた。
だが、2011年の東日本大震災で状況が一変する。新店舗を任せてくれるはずだったオーナー(保証人になる予定だった人)が海外に避難したまま行方知れずとなってしまった。
どうしたらいいのかわからず、入管に相談しても、真剣に取り合ってもらえず、来日15年目にとうとう在留資格を失ってしまった。
順風満帆だった生活から一気に落とされたペニャさんの生活は困窮し、入管施設での過酷な収容を二度も経験した。
●代理人「再び笑顔で美味しい料理をふるまう日を信じて」
ペニャさんの代理人をつとめる駒井知会弁護士は語る。
「日本に『在留特別許可』の制度がある以上、彼のような人を救わずしてどうするのかと思います。ペニャさんは、父親の政治的背景を理由に、祖国で2度も拉致・拷問を受けました。
チリで暮らすことができず、日本の片隅で料理人として真面目に働いていたペニャさんが、東日本大震災の混乱の中で在留資格を失った経緯を考えても、彼をいたずらに責めて送還を迫るのは誤りです。
国は彼を保護し、少なくとも人道的な配慮から在留特別許可を与えるべきです。彼の家族はすでに祖国を離れるか、亡くなっています。チリに送還されても身を寄せる場所はありません。
けれども、ペニャさんは長い日本での生活の中で日本社会に大勢の友人を作り、彼らに支えられながら、仮放免の不自由な生活に耐えています。私たちは、彼が再び笑顔で美味しいチリ料理をふるまう日を信じて、この訴訟を闘いたいと思います」
●ペニャさん「ビザが出たら、すぐに働きたい」
ペニャさんに今の生活について話してもらった。
「ビザを失ってから、ずっと苦しかった。でも裁判で弁護士や友人たちに支えられていると感じ、少し気持ちが楽になっています。
ビザが出たら、すぐに働きたい。料理をするのはとても楽しい。みなさんの支援ではなく、自分で稼ぎたい。ビザさえ出れば雇ってくれる店もあります。
家賃も電気もガスもとても大変。働いて、迫害のときに負った膝のケガを治したい。今は保険がないので、病院では注射しか受けられません」
そして、少し間をおいてから寂しそうに続けた。
「もし叶うなら、お父さんのお墓参りをしたい。お父さんは優しくて温かい人だった。でも、それは叶うことはないと思います……。」
最後に日本の人々への思いを尋ねると、静かにこう言った。
「駒井弁護士や、友人のみなさんに支えられて、とても感謝しています。いつも、いつもありがとうございます」
(ライター・織田朝日)