「子どものいない人生は不幸」「産まないと後悔する」ーー。SNSではそんな〝呪い〟とも言える文句が並びます。
エッセイストの吉田潮さんは、30代後半で不妊治療。しかし50代になった今、子どものいない自身の人生に「悔いは1ミリもない」と言います。以下、吉田さんの寄稿をお送りします。
●悔いは1ミリもない
画像はイメージです(Luce / PIXTA)
子どものいない人生を歩いている。
今年で53歳になるが、30代後半のときに「子どもがほしい」と思い込み、不妊治療も経験した。妊娠はしたが出産まで至らず、お金と時間を費やして痛い思いをした。根性も忍耐力も資金もなく、半年であきらめた。
ただ、失敗を経て、「ここまでして本当に私は子どもがほしいのか?」と自分自身に向き合ったことがよかったと思っている。
実際、そこまで切実な願いではなかったこと、子どもがいる人生よりも子どもがいない人生のほうが容易に想像しやすく、自分の性分に合うとわかったことが大きい。向き・不向きで言えば、明らかに不向き。なんでこんなシンプルなことに気づかずに血迷ってしまったのか。
不妊治療の失敗も含めて、揺れた経験を記した『産まないことは「逃げ」ですか?』という本を出したのが2016年のこと。まあ、十数年も前の話だし、自分の現在地に満足しているので、悔いは1ミリもない。
●「子どもがいないと老後は悲惨」という決めつけ
画像はイメージです(プラナ / PIXTA)
しかし、未だに子どもがいない人に対して、世間の風当たりは強いという。
「子どもがいなくてかわいそう」という憐憫を装ったマウントは進化を遂げ、「子どもがいないと老後は悲惨」という決めつけも散見される。
「子どものいないお前らの老後は誰が面倒みるんだ!」というお叱りなのだが、この手の方々はどうやら子どもに老後の面倒を押し付けるのが前提のようで。その前提自体に違和感を覚える。
なかには、謎の大局観を勝手に背負った輩が「少子化なのに国に貢献できずに申し訳ないと思わないのか?」と説教してくるという。こちとら違う形で細々と鋭意尽力しとりますし……(労働と納税)。
いや、喧嘩するつもりは毛頭ないが、なぜこうも個人の生殖に口をはさんでくるのか、不思議でならない。
●他人の生殖に口を出さないほうがいい
もうひとつ、風当たりが強いのは、あたかも子どもをもたないことを推奨しているように思われているのかもしれないから。
「子どもをもつな」とはひとことも言っていない。「私たちは子どもをもたない人生を自ら選びました」というだけのこと。
子育ての苦労も喜びも一生知ることはできないけれど、子育てに悩む人や大変な思いをしている人がちゃんと救われて報われる社会になるといいなと陰ながら願っている。でも自分はもたない。ただそれだけのこと。
もし「今はほしくないけど先はわからない」という女性がいたら、自分で選ぶことを勧める。「産まないと後悔する」とは言えないし、「産まないほうがいい」とも言わない。だって、その人の生殖の選択肢はその人が決めるのが最善だから。
産んだ人も産まなかった人も産めなかった人も、他人の生殖に口を出さないほうがいい、とつくづく思う。よかれと思って言ってくれているのだろうけれど、みんな、過剰にお節介なんだよなぁ。
そんな過剰なお節介に、子どもをもたない人はなんだか居心地が悪いと感じているようだ。
それは「結婚するのが当たり前」、「子どもをもつのが当たり前」、「家族仲良くが当たり前」、「親の介護は子どもやその配偶者が担うのが当たり前」……と「当たり前」が根強く残っているからだ。
要するに「横並びの世間体」ってことだ。平成から令和にかけて、震災やコロナ禍を経験して、生活様式も労働環境も家族形態も様変わりしてきたはずなのに、「当たり前」の概念だけが鎮座ましましているようにも見える。
でも、誰かの当たり前は自分の当たり前じゃない、と気づいたら、こっちのものよ。自分の居心地は自分次第で変えられるから。
●「逃げ」でも「わがまま」でもない
子どもがいないことを公言しているからか、「子どもがいないと寂しくないですか?」と年下の女性たちに聞かれることがある。あまりに「子どもあり」な人生設計が社会的な前提となっているからか、彼女たちも不安になるのだと思う。
その不安を解消するため、私にできることはほぼない。でも、たぶん「子どもがいなくても後悔していないし、充実している」と言い続けることなんだろうな。
子どもをもたないことは「逃げ」でも「わがまま」でもない。生き方のひとつなのだから。
押しつけられる「当たり前」に苦しんで、不全感や罪悪感を抱え込んでいる人、声を出しづらくなっている人、肩身が狭い思いをしている人に、居心地よく生きていると伝えることなのかも。
●子どもがいないメリットも
子どもがいないことのメリットは、どうしても「お金や時間がある」という物理的な話になりがちだ。確かに、子どもを育て上げるためのお金や時間は一切かからない。
でも、左団扇で余裕というわけでは決してない。住宅ローン支払いのために死ぬまで働かなきゃいけないし、死ぬまで働きたいと思っている。
たぶん最も大きなメリットは、精神的な余裕ではないかと思う。余白というべきかな。心配で不安で見守らなきゃいけないという対象が少ないことが、どれだけ精神的に楽か。突発的なトラブルや有事の際にも、仕事さえこなしておけば全力で対応できる。
もともと面倒見がいいわけでもないし、仕事と自分事以外で気にかけなきゃいけない対象が多すぎると、キャパの狭い私は潰れてしまうだろう。
実際、認知症の親の介護施設の手続きやら、病気の親の入退院やら、成年後見人になって親名義の不動産を売却するなど、家族の終活に全力を注ぐことができた。マンションの管理組合理事会の活動や、飼っていた猫の看取りや、新しく迎えた保護猫の治療と手術など、義務と責任を果たすべきタスクをやりきることができた。
子どもがいない分、他に回せる余白のありがたさを痛感しているのである。
●名女優・市原悦子が語った「独り身の世界」と覚悟
そんなわけで、「子どもがいない人生」をテーマにした仕事をいただく機会があり、そのたびに書いたり話したりすることがある。大好きな女優・市原悦子の話だ。
テレビドラマにあまり馴染みがない人でも、「家政婦は見た!」シリーズ(テレ朝)の主演は有名なのでご存知かと思う。私の世代で言えば、幼少期に観た「まんが日本昔ばなし」の見事な語りが記憶に色濃く残っている。柔らかく温かい独特な声音が想像力をかきたて、気取らない芝居は親近感と共感を呼んだ、名女優だ。
彼女は著書「ひとりごと」(春秋社)の中で、母親役について書いている。彼女自身に子どもはいなかったが、一時期、母親役のオファーが多かったそう。あるときから断ることにしたという。
<「もう、母親役はいい。特にホームドラマはやらない」ということになった。「子どものある人にやってもらおう」と。やはり私は一人で生きている女性のなにかを演じたい。その人たちと握手して連帯したい、と。
独り身の人には独り身の世界があって、独り身であるがゆえに、いきいきと生きられる人生というのを、見つけていると思うんですね。何回か流産して病院に行って、もうできないということがわかって、私も泣きました。
けれども、いつの間にかあきらめていました。生来の楽天性というのでしょうか。もうできないとなったら、できない人生を、どういきいきと生きようかと。
夫の言葉に助けられてのことですけれど>(「ひとりごと」より抜粋)
読んでいて、ものすごく腑に落ちた。子どものいない人生をどう伝えていくべきか、市原悦子が教えてくれたと思っている。
それにしたって、「握手して連帯したい」って、なんていい言葉なのだろう。これは私の勝手な解釈ではあるけれど、独身も既婚も子持ちも子なしも、握手して連帯したいのだよ。
妻になった人も母になった人も祖母になった人も、ならなかった人も、みーんな女。いや、ヒトである。最終的にはヒトとヒト。握手して連帯できれば本望です。
【プロフィール】吉田潮(よしだ・うしお)
コラムニスト・イラストレーター。週刊新潮、東京新聞、NHKドキュメント72時間(読む&聴く)、NHKステラnet、プレジデントオンライン、小学館kufuraなどで連載・寄稿。著書に『産まないことは「逃げ」ですか?』『親の介護をしないとダメですか?』(ベストセラーズ)、「ふがいないきょうだいに困ってる」(光文社)。など。