1985年8月12日午後6時56分、群馬県上野村の山中に524人を乗せた日航ジャンボ機が墜落した。
520人が亡くなった事故から40年。当時をリアルに知る遺族の多くが高齢になったり亡くなったりする中、別の事故や災害で家族を失った人たちが墜落現場「御巣鷹の尾根(おすたかのおね)」に集まるようになっている。
彼ら彼女らの思いは一つ。こんなことは二度とあってはならない──。(弁護士ドットコムニュース・一宮俊介)
●震災や過労死で子を喪った親たちも参列
8月12日午前8時30分過ぎ、海抜1359メートルの登山口に4人の男女が一歩を踏み出した。
東日本大震災で息子の健太さん(当時25歳)を亡くした田村孝行さん(64)と妻の弘美さん(62)。
そして残る2人は、過労死で子どもを失った高橋幸美さん(62)と安部宏美さん(64)だ。
健太さんは2011年3月11日の東日本大震災で、当時勤務していた宮城県女川町の七十七銀行女川支店で津波に飲まれ、帰らぬ人となった。
田村さん夫妻は震災後、一般社団法人「健太いのちの教室」を設立し、企業や組織の防災、安全対策について啓発活動を行っている。
その中で、日航ジャンボ機の墜落事故で息子の健さん(当時9歳)を亡くした美谷島(みやじま)邦子さんと出会い、2015年から「御巣鷹の尾根」の慰霊登山に参加するように。
そして今回は、高橋さんと安部さんが田村さん夫妻に誘われ、初めて御巣鷹山に登ることになった。
「昇魂之碑」の前で手を合わせる(左から)田村孝行さん、妻の弘美さん、高橋幸美さん、安部宏美さん(弁護士ドットコムニュース撮影)
●「また来年ね」とあいさつも
あいにく、この日は朝から小雨が降り、ところどころで足元がぬかるむ状況だったが、4人は一歩一歩、山道を登っていく。
途中、先に登り終わって下山していた事故の遺族や関係者と行き交う際は、お互いに抱き合ったり、「また来年ね」とあいさつしあったりする光景が繰り広げられる。
高橋さんと安部さんも道中、事故で友人を亡くした女性から「こうしてここに来ていただいたということは、やっぱりうれしいですよ」と声をかけられた。
田村弘美さんは次のように言う。
「日航ジャンボ機事故の遺族と他の遺族が集うことでつながる。それがこれからの安全につながっていきます。私たちは震災の遺族なので、このような事故はもう二度とあってはならないという思いを重ねながら登ります」
日航ジャンボ機事故で友人を亡くした女性(右)と話しながら登る安部さん(左)ら(弁護士ドットコムニュース撮影)
●「つながっているんだなということを実感」
登り始めて1時間。海抜1539メートルに位置する「御巣鷹の尾根」に到着した。
田村さん夫妻と高橋さん、安部さんの4人は「昇魂之碑」と書かれた石碑の前で合掌し、犠牲者たちの冥福を祈った。
尾根の周辺には遺体が見つかった場所ごとに名前や戒名が刻まれた墓標が立っており、4人はそれぞれを回って手を合わせた。
安部さんの息子・真生(しんは)さん(当時30歳)は2019年、東芝デジタルソリューションズでシステムエンジニアとして働いていた時、過労で自ら命を絶った。
初めての慰霊登山を終えた安部さんは「遺族と言ってもこれまでは別々の出来事だと思っていましたが、今日ここにきて、つながっているんだなということを実感できました」と述べた。
山道脇にある墓標に手をあわせる安部さん(左)と高橋さん(弁護士ドットコムニュース撮影)
●「ここは遺族がつながる場であり、遺族をつなげる場」
高橋さんの娘まつりさん(当時24歳)は、広告大手の電通に入社した1年目に過労自殺した。高橋さんはまつりさんが住んでいた部屋や最寄り駅に今でも行くことができないでいるため、日航ジャンボ機事故の遺族らが毎年、墜落現場を訪れているニュースを目にして、「悲惨な亡くなり方をした場所によく行けるな」と思っていたという。
この日、ジャンボ機が墜落した山肌を目の当たりにした高橋さんは「ここは遺族にとって辛い場所。それでも登らなければならない場所なんだと思います」。
御巣鷹の尾根を訪れることについて、田村孝行さんは次のように語った。
「ここは遺族がつながる場であり、遺族をつなげる場です。点のように存在している遺族たちが線になって、どんどん太くなっていく。そして、私たちのような遺族が生まれないように声を上げていく。この場所は、そうした活動を確認したり発信したりする場になっていると思います」