毎年8月12日になると、日航ジャンボ機が墜落した山に遺族や報道関係者が集う。
大切な親友を失いながらも、2年前までこの日を避けてきた女性がいる。メディアスクラムを目の当たりにした当時から40年が経ち、風化を防ぐ必要性を感じ始めた。(弁護士ドットコムニュース・一宮俊介)
●「またゆっくり会おうね」その6日後に起きた悲劇
「まりちゃん、きたよ」
山梨県甲府市の若月明子さん(61)は、目の前にある石の墓標をなでるようにしながら話しかけた。
そこには、「冨田真理」「享年二十一歳」と刻まれている。
若月さんは、真理さんが好きだったビール、それにマスカットやブドウ、お菓子を供えた。
高校時代に野球部のマネージャーだった2人。卒業後も親友としてよく連絡を取り合った。
冨田さんは関西の大学に進学し、若月さんは短大を経て先に就職。
1985年8月6日、親族の葬儀に出席するために帰省していた冨田さんとお茶した。少しのつもりだったが気がつくと2時間ほど話し込んでいた。それほど気の許せる間柄だった。
「またゆっくり会おうね」
そう言って別れた6日後だった。
「御巣鷹の尾根」の小屋の中に掲示されている冨田真理さんの写真(弁護士ドットコムニュース撮影)
●憔悴した遺族にマイクを向けるメディアに不信感
8月12日午後11時ごろ、テレビのテロップが日航ジャンボ機の墜落を速報した。
「彼女が乗る飛行機の便を聞いていたわけではなかったんですけど、嫌な予感がしたんです。そしたら…」
次々と報じられていく搭乗者の中に「トミタマリ」の名があった。
若月さんが冨田さんの実家に連絡すると、身元確認への協力をお願いされ、遺体が運び込まれる体育館で過ごすことになった。そして、冨田さんの鍵が発見されたと知らされた時、「本当に亡くなったんだ」と実感した。
「日航ジャンボ機の事故は無惨な亡くなり方をしたという伝えられ方をすることが多く、実際にそうした方たちも多かったのですが、彼女の場合はきれいなご遺体でした」
当時、インターネットや携帯電話は普及しておらず、事故に関する情報を今のようにすぐに受け取ることは難しい状況だった。
そこに、テレビ局の取材が入ってきた。憔悴しきった遺族に女性キャスターがマイクを向ける光景は負の記憶として頭に強く残った。
事故から40年を迎える中、灯籠流しをする遺族ら。現地では、事故の教訓や当時の記憶を伝えようと多くの記者やカメラマンたちが必死に取材していた(2025年8月11日、群馬県上野村で、弁護士ドットコムニュース撮影)
●メディア忌避を変えた遺族との出会い
40年前に感じたメディアに対する不信から8月12日だけは事故現場に行くのを避けてきた。この日は多くの遺族や関係者が慰霊登山をするのに合わせて、マスコミの取材が集中するためだ。
若月さんの気持ちが変わったのは2023年。事故から38年を迎えた際の遺族との出会いがきっかけだった。
墜落した飛行機で、真理さんの隣には南慎二郎さんという男性が座っていた。真理さんの最期を少しでも知りたいと考えていた若月さんは、南さんの娘で、よくメディアの取材に応じていた内野理佐子さんのことが気になっていた。
毎年8月12日は、上野村で墜落時刻に合わせて慰霊式典が開かれている。
2023年の式典に参加した若月さんは、遺族らが追悼モニュメントの周りにロウソクを灯す際、内野さんが南さんの名前が刻まれた石碑に近づいたのを確認して思い切って声をかけた。
メディアの取材を受けたことがなかった若月さんのことを知らなかった内野さんは一瞬驚いた様子だったが、若月さんの思いを聞いて、亡くなった2人の思い出を語り合った。
追悼の石碑に刻まれた「冨田真理」さんの名前(2025年8月12日、群馬県上野村で、弁護士ドットコムニュース撮影)
●「あんなことはあっちゃいけない」
その時、若月さんはこれまでメディアの取材を避けてきたことを話した。内野さんは次のような趣旨の話を口にしたという。
「世の中、事故が風化していくことはどうしても避けられない。私たちがメディアの力を借りることで、人間の忘れようとする記憶に向かい合っていく必要がある」
決して強制するような言い方ではなかったが、若月さんは内野さんの言葉に動かされ、翌2024年は8月12日に慰霊登山を行い、メディアの取材を受けた。真理さんとの大切な思い出が記事になった。
今年も8月12日、飛行機が墜落した「御巣鷹の尾根」に登った。慰霊碑の前には、記者や大学生たちに囲まれながら当時を知らない若者の質問に穏やかに答え続ける若月さんの姿があった。
真理さんの両親はすでに他界したという。健康な限り、若月さんは親友が眠るこの場所を訪れ続けるつもりだ。
「彼女が生きていたら、人生が全く違っていたと思います。あんなことはあっちゃいけない」