韓国の大統領選挙が6月3日におこなわれる。2024年12月に前触れなく非常戒厳を宣布し戒厳軍が中央選挙管理委員会に侵入したのは憲法違反だとして、尹錫悦(ユン・ソンニョル)前大統領が憲法裁判所により2025年4月に罷免され、失職したことを受けたものだ。
次期大統領と目されているのは、2022年の選挙で尹錫悦に約26万票差で負けた「共に民主党」の李在明(イ・ジェミョン)候補だ。過去に過激な発言で「韓国のトランプ」とも呼ばれた人物だ。そのため、韓国人の極右系ユーチューバーなどの中には「尹錫悦でなければ、日韓関係は崩壊する」という主張も散見される。
本当に韓国の政権が変わったら、日韓関係は「崩壊する」のだろうか。神戸大学大学院国際協力研究科教授の木村幹さんと、ソウル在住で『コリア・フォーカス』編集長の徐台教さんに、日本と韓国それぞれの視点から聞いた。(聞き手・朴順梨)
●突然の非常戒厳の発端は「分割政府」によるジレンマ
2024年12月3日から4日にかけて、尹大統領(当時)は突如、非常戒厳を宣布した。
内容としては
・他党が多数派を占める国会が韓国の国家本質機能を毀損し、大韓民国を麻薬天国、民生治安の恐慌状態にしている。これは「憲法と法により正当な国家機関を撹乱させるもので、内乱を企てる明白な反国家行為」である
・北朝鮮による共産勢力、野党による反国家勢力から韓国と国民を守るために非常戒厳を宣布する
というもので、すべてにおいて一切の根拠がなかった。さらに
・国会から市民レベルまで、集会、デモといった政治活動の一切を禁じる ・すべてのメディアと出版は戒厳司令部によって統制される
など、その内容がかつての独裁政権をほうふつさせるものだったことから、多くの市民が警察により封鎖された国会前に詰めかけ、民主主義を壊すなと声を上げた。
国会議員たちもすぐに動き、戒厳宣言の約4時間後には出席した190人の議員(定数300)の全員が、戒厳令の解除を可決した。この中には与党議員も含まれている。韓国の憲法では、国会議員の過半数が可決した際には、戒厳を解除しないとならないとしている。
そもそもなぜ尹錫悦は、暴挙としか思えない戒厳を宣言したのか。木村さんは、尹政権が与党と議会多数党が異なる「分割政府」状態だったことにあると語る。
「大統領就任のときから尹政権は、一貫して圧倒的な少数与党でした。また、社会のイデオロギー的分断が進む中、李在明に率いられる野党は、大統領の政策運営に非協力的で、結果として尹錫悦の政策運営は行き詰まっていました。 尹錫悦はこの状況を『北朝鮮や中国が背後で意図を引いて、韓国社会を扱っている』という一部ユーチューバーらなどが主張する陰謀論で理解し、それを打破するために戒厳令を宣布したということになります。 尹錫悦からすれば、自分がどれだけ訴えても世論が変わらないのは、誰かが背後で世論を操縦しているからだ、と考えたからでしょう。同じようなことは、たとえばトランプが『ディープステート』に社会がコントロールされていると、主張する例でも見られます。 あわせて尹錫悦は自らの意見に反する人々を自ら遠ざける傾向があり、結果として、周囲にイエスマンしか残らなかったことも大きいでしょう。苦境に陥った人間が陰謀論に依存して、自らの苦境を『合理化』することは誰にでもあると思います」
●「韓国の若年男性が右傾化している」というデータはない
徐さんによると、2024年11月には尹政権の支持率は10パーセント台だったという。
たとえば2022年8月、豪雨によってソウル市内の半地下住居が浸水し、住んでいた家族が亡くなったときも定時で退社するなど、共感能力や意思疎通能力が足りないといった指摘は絶えなかった。妻の金建希(キム・ゴニ)氏に対してもまた、株価操作への加担や、ディオールのバッグを賄賂で受け取るなど、数々の疑惑が持ち上がっていた。
そして24年4月の総選挙で大敗する。尹錫悦は市民から見放され、野党から攻撃され続けてきたことで、瀬戸際に追い込まれた面があるとみている。
そんな尹錫悦が前回辛くも当選したのは、文在寅(ムン・ジェイン)政権への不満も加えて、反フェミニズムで右傾化傾向の強い、若年男性層の存在が大きいという声がある。
たしかに尹錫悦は選挙公約で、ジェンダー平等や性暴力被害者支援にあたってきた女性家族部の廃止を訴えてきた。また尹錫悦の拘束令状が発布された1月19日、抗議のためにソウル西部地方裁判所に侵入した尹支持者は20~30代男性が中心で、日本に向けて尹支持を表明してきた韓国人ユーチューバーも20代と30代の男性だった。
徐さんに聞くと「韓国人の20代男性の特徴として、たしかに反フェミニズムと極右が挙がります。しかし彼らが極右という統計・世論調査はありません」と語った。
「20代男性が極右だというデータは、実はこれまでどこにも存在していません。いわば、作られたイメージと言えます。1月19日の裁判所を襲撃したのは、たしかに若年男性が中心でしたが、時間が深夜の3時でしたので、その時間に過激な行動をとれる高齢者は少ないと思います。 ただ、反フェミニズム傾向があるのは事実です。今回の選挙に立候補している李俊錫(イ・ジュンソク)という1985年生まれの候補者の公約に、やはり女性家族部廃止があります。また討論会での女性蔑視発言もありましたが、そんな彼を20代男性の4割以上が指示しているという、世論調査の結果があります。 しかし、大統領の権限縮小や科学者優遇などを訴える李俊錫は、極右思想ではありません。韓国若年男性のアンチフェミニズムが、イコール右傾化しているということに結び付く客観的なデータは存在しないんです」
●法的な解釈が揺れ動く社会
これまで韓国では政権の変わり目のたびに前政権の腐敗が指摘され、また男性と女性だけではなく、さまざまな層が激しく対立してきた。なぜ腐敗が起きるのか。そして社会の対立や分断が顕在化してしまうのか。
木村さんに問うと、韓国社会の分断は固定化しているのであって、顕在化しているのではないという答えが返ってきた。
「腐敗や権力の暴走が起こるのは、端的に言うと大統領の権力が大きすぎるからであり、法的な解釈が揺れ動くので、前政権では許されていた行為があとには違法行為として認定されるからです。韓国は『司法消極主義』の日本とは異なり、積極的に過去の判例を書き換えていく典型的な『司法積極主義』の法文化を持っていますが、これは伝統文化等によるものではなく、植民地支配と民主化の結果です。 植民地支配と権威主義政権を経験した韓国では、過去の判例を引き継ぐことが難しく、繰り返し、法の遡及や判例の大幅な変更、さらには積極的な法的解釈の改編がおこなわれてきました。ご理解いただけるかと思いますが、こうして法的解釈が変更されれば、場合によっては、その変更により政敵を追い落とすことも可能になるわけで、不安定さはダイナミズムの裏返しだ、ということになります。つまりは制度と歴史的背景の産物です」
「また、韓国において『分断が顕在化している』というのと、『分断が極端化し、固定している』というのはまったく違います。たとえば、盧武鉉(ノ・ムヒョン)や朴槿惠(パク・クネ)が弾劾されたときには、世論が一方に大きく振れ、盧武鉉の場合には弾劾反対、朴槿惠の場合には弾劾賛成で、世論がまとまった結果、政治が大きく動くことになりました。 しかし、現在の状況は、双方の支持層が固定化し、さらに左端と右端にまとまることにより、保守・進歩両政党内部の主導権も、右端と左端の人々が握ることになっています。たとえば、大統領選挙に立候補するためにはまず各党の予備選挙を勝たなければならないわけですが、各政党の支持層が左端、右端に偏っていると、党内選挙で左端、右端の候補者が立つことになり、両者の話し合いは不可能になります。 今の韓国の状況はそういう状態です。『左右両派が対立している』というのと、『社会が左右に両極化され、分断されていて、対話すら困難になっている』というのは、まったく異なる現象なのです。 アンチフェミニズムによるバックラッシュが、韓国の若年層の投票行動に影響を与えたことは事実ですが、結果、20代と30代の票は、男性が保守女性が進歩と二分された形になったので、『どちらかが明瞭に得をした』とは言い難いでしょう。どちらかといえば、『アンチフェミニズムにより世論の分断が若年層にまで浸透した』という点を重視すべきだと思います」
●左派候補がどれだけ票を獲得するのか
李在明に加え、尹錫悦が所属していた(現在は離党)「国民の力」からは金文洙(キム・ムンス)候補と、元「国民の力」所属でハーバード大学を卒業した李俊錫候補が、上位票を獲得すると言われている。それぞれどのような政策や公約を掲げ、何が争点になっているのだろうか。
「今回の大統領選挙は、候補者がいずれもポピュリスティックな人物であり、具体的な政策的論争が戦われているとは言えません。もっとも議論されているのは、尹錫悦の戒厳令宣布をどう考えるかであり、次に李在明を中心とする野党の政治姿勢をどう見るかになっています。 李在明と金文洙は前者が分配重視、後者が経済成長重視という違いはありますが、具体的な経済政策のグランドデザインは両者ともないと思います。李在明は進歩派ですが、たとえば文在寅や盧武鉉のように北朝鮮との対話の実現を外交政策の軸に挙げているわけでもありません。 あえて争点らしい争点をあげれば、左右に分断してしまった韓国国内の融和をどのようにして実現するかでしょうけど、これも目標だけがあって具体的な手段はまったく見えない状況です」
(木村さん)
そんな中で注目すべき点があるとすれば、それは何だろうか。
「今回は18年ぶりに女性候補がいない中、私は記号五番、民主労働党の権英国(クォン・ヨングク)候補に注目しています。世論調査では1%台の支持にとどまるマイナー候補ですが、主に労働問題を扱う弁護士として、その道ではとても知られた人物です。1997年の通貨危機以降、韓国が新自由主義に舵を切る中で、労働者にしわ寄せがいくいわば韓国社会の『底辺の問題』と向き合ってきました。 いわば左派候補ですが、李在明氏が左派的な主張をしなくなった今、労働者の権利を守ろうとする権英国は重要な存在だと思っています。テレビ討論会でもその存在感は際立っていました。彼がどれくらい票を得るかが、山積する韓国の社会問題の今後を左右すると思い注目しています」
(徐さん)
「李在明は1963年に韓国南東部の安東(アンドン)市に生まれ、ひと際貧しい家庭環境で育ちました。当時は小学校までが義務教育でした。小学校を卒業してからはソウル校外の城南(ソンナム)市に一家で移住し、工場に就職します。7人兄弟の中で、中学校を卒業した人は2人だけでした。当時の諦めに似た感情を自伝で淡々と振り返っています。 その後、その環境から脱出しようと、高卒資格と大検を取り、大学を目指します。ソウル大学に入学できる点数でしたが奨学金をもらえる点から、中央大学の法学部に進学。そして大学卒業後すぐの23歳で司法試験に合格します。 その後、地元の城南市で人権・労働派弁護士として働き、2010年には市長となりました。その行政は福祉の拡大という明確な特徴がありました。貧しい家庭からのし上がってきた弱者の味方という、左派的なイメージはこの時に形成されました。 しかし大統領を目指すようになってからは、韓国の主流である中産階級にアピールするためには、左派的な政策だけではダメだと気付いたようです。以降は以前の社民主義的ともいえる特徴が失われ、政策的には平凡な政治家になってしまっています。彼は目の前の課題を一個一個解決しながら今の地位まで上り詰めた、つまり、長期的視野がないと事情をよく知る専門家が指摘したこともあります。 一方で、前回(2022年3月)の大統領選で敗北した際には、敗因を党内の非協力に求めました。そして2024年4月の総選挙を通じ、党内を自分に賛同するメンバーで固めました。そして選挙でも圧勝を収めました。李在明はこの時、人心掌握に長け、強い政治家であることを韓国に広く示しました」
(徐さん)
●日韓関係における秩序は今後も維持される
李在明を「反日」と表現する日本メディアもあるが、彼が大統領に就任したら、現在の日韓関係は変わっていくのだろうか。
「李在明は対日関係はもちろん外交に関心も一家言も有していないので、対日政策は総論としては『対日関係は重要だ』という一方で、各論としては韓国世論の常識、つまりは領土問題においても歴史認識問題についても原則論で対応する、ということになるだろうと思います。 また言葉遣いが過激な傾向がありますので、結果として彼は『反日的』に見えるだろうと思います。加えて、対日関係に関わる司法の判断には介入しないでしょうから、元徴用工問題や慰安婦問題での対立が表面化する可能性は高いでしょう。 ただし、それは李在明率いる行政府が『何かをした』結果ではないことには注意する必要があるでしょうね。韓国社会はすでにそういう、彼の方向性を当たり前だと考える社会になっているのです。 日本にとって重要なのは、そろそろ『韓国の認識などを日本に合わせたものに変えられる』という幻想を捨てるべきだ、ということです。領土問題にせよ、歴史認識問題にせよ、彼らには彼らの理解があり、それを変更しなければならない理由は何もありません。 我々はたとえば、韓国にはその認識の是非について声を上げますが、たとえば、アメリカの広島・長崎に対する認識や、ロシアの北方領土に関わる認識について、一喜一憂はしないと思います。また、『韓国の法的慣行はおかしい』という人が『サウジアラビアの法的慣行はおかしい』とは言わないでしょう。 韓国の司法は現在まで、日本企業や日本政府の賠償を認める判決を数多く出しており、この傾向はおそらく変わることがないでしょうし、我々には変える力も権利もありません。当たり前ですが、韓国には韓国の法制度があり、法慣行があり、社会があります。それを大前提として外交を考えていく、という当たり前の姿勢が必要なのだ思います」
(木村さん)
「李在明氏は口が軽いところがあるので、日本に対してもポロっと失言をこぼす可能性はあります。しかし、選挙戦を通じ幾度も今の日米韓協力の枠組みを維持したままやっていくと宣言しているので、今ある日韓関係の秩序を壊すことはまずないでしょう。 昨年12月、尹錫悦前大統領は韓国で45年ぶりとなる非常戒厳を宣布しました。これは端的に言うと、1987年の民主化以前の強権政治に戻そうとしたということです。韓国市民が何よりもプライドを持っている、自分たちの手で得た民主主義が破壊されかけたショックはとても大きいものでした。 これを回復し、さらに0%台の成長と低迷を続ける経済を立て直すためには、一番力のある政治家に国を任せなくてはならないという雰囲気が韓国社会の中にはあります。 このため今回の選挙は、李在明を好きとか嫌いとか、彼が親日だとか反日だとかという次元では、決して語れるものではありません。ただ今後、李在明政権が南北関係を修復しようとした際、日本がどんな態度に出るのか。 過去の安倍政権のように南北関係改善を日本政府が強硬に反対しようとする場合、『日本は朝鮮半島の幸せを願っていないのか』と、ふたたび韓国の世論が日本に対して厳しくなる可能性はあります」
(徐さん)