旅館に泊まると、和室の窓際にテーブルとソファが置かれた小さなスペースを見かけることがあります。多くの人が一度は目にしたことのある、旅の疲れを癒す空間です。では、この場所の正式名称をご存じでしょうか。
この空間は「広縁」(ひろえん)と呼ばれます。日本独自の造りで、ちょっと涼んだり、一息ついたりする場として、国内外の宿泊客に親しまれてきました。
広縁が日本の宿泊施設のスタンダードとして定着した背景には、戦後の観光政策とある法律が関わっています。
●戦後に整備された宿泊施設の基準
第二次世界大戦後、日本は復興と国際社会への復帰を目指し、訪日外国人観光の推進を重要な政策に掲げました。その象徴とも言えるのが、1949年に成立した「国際観光ホテル整備法」です。
この法律は、外国人観光客や外交関係者にふさわしい宿泊施設を整備するために制定されました。当時、主要ホテルの多くは占領軍に接収されており、民間で一定の基準を満たす施設を増やす必要があったのです。
当時の状況について、『ホテル旅館関係法規解説』(国井富士利著/東洋法規出版/1953年)にはこう記されています。
「周知の如く、わが国のホテルは戦時中にかなりの荒廃を余儀なくされた上に、戦後優秀ホテルの大半が接収され、自由営業ホテルは僅少であったのみでなく、特に主要観光ないし至観光地帯には自由営業のホテルは皆無に近い状態となったのである」
この法律は、一定の基準を満たした施設に税の軽減措置を設けるなど、戦後の復興を後押ししました。
●訪日観光客のために「広縁」を設置
「広縁」が定着したのも、この法律がきっかけでした。1952年改正で「いす及びテーブルの備付のある広縁その他の施設があること」を旅館に求めたのです。
『ホテル旅館関係法規解説』には、次のようにあります。
「これは、外客の日常の起居の利便を考慮しての規定」「『広縁』については、原則として幅員四尺五寸以上、長さ九尺以上のものが要求されている」
つまり、洋室に慣れた外国人観光客の生活様式に合わせて、椅子やテーブルを備えた広縁を整備するよう促していたのです。
弁護士ドットコムニュースが観光庁に確認したところ、現行法に「広縁」に関する規定は残っていません。
●現在の国際観光ホテル整備法
なお、現在もこの法律に基づいて、一定の基準を満たしたホテルや旅館の登録制度が続いています。観光庁公式サイトでは、次のように説明されています。
「国際観光ホテル整備法は、ホテルその他の外客宿泊施設についての登録制度や外客に対する登録ホテル等に関する情報提供を促進するための措置等について規定」
ホテルであれば「基準客室数15室以上」「洋朝食が提供できる厨房および食堂」、旅館であれば「基準客室数10室以上」「共同用浴室」などが定められています。2025年1月時点で、ホテル938施設、旅館1364施設が登録されています。
また、複数の外国語での標識や、インターネット環境の整備など、外国人観光客に配慮した措置も義務付けられています。
広縁の規定は姿を消しましたが、旅館にあるとどこかほっとする人は多いでしょう。窓辺で腰を下ろし、お茶を飲むひととき──それは、日本の復興と観光政策の歴史を今に伝える、静かな名残なのです。